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カテゴリ:詩/感想文( 29 )

「響きと怒り」

フォークナーの「響きと怒り」を読んだ。これは初読。そして初めての衝撃だった。「たまにはアメリカ文学でも読んでみたら?」とコパンに簡単に言われたので、私の方も適当に(でもないかな?)選んでみて、ほとんど前知識なしで読み始めたら、あまりに難解でどうしようかと思った。

なぜなら、第1章はコンプソン家の末っ子の知的障害者ベンジャミンの語りで、彼の意識がそのまま表現されるからだ。例えば、「僕は泣いた」と書いてあっても、周囲の人の声として「あー、またこんなによだれを垂らしてビービー泣いてるだ」と子守が言うのでそれが普通の鳴き方でないことに気づくといった具合だ。そしてベンジャミンは色々なことが分からないし、説明できないから、これが好きとか、嫌いとか、美味しいとか、まずいとか、そんな言葉は出てこなくて、よく出てきた言葉といえば、「匂いを嗅いだ」くらいだった。
しかも、物語は展開を無視して時間の流れを突如切断されて、過去の場面に遡ったり、現在の場面に戻ったりするので、そういう意味でも後ろの解説を拾わないと理解できない難解な小説だった。

第2章はコンプソン家の長男のクエンティンがメインだが、彼は家の土地を売った資金で通わせてもらったハーバード大学在学中に自殺をしてしまう。理由は大好きな妹が結婚したからという信じられないことで、この兄妹は近親相姦を犯しているし、ベンジャミンは去勢手術をしているので、内容はかなり重く、そんな内容だとは全く想像していなかった私はとても面食らいながら読んでいた。
第2章はそのクエンティンが自殺をする日の1日の足取りが書かれているが、そういう人間だから、彼の思考回路は繊細すぎてとても不明瞭、この章もやはり難解であることに変わりなかった。

第3章は次男のジェイソンの話で、彼は一番常識人だが、とにかく性格が悪いのが特徴だ。小さい頃からいつもポケットに手を突っ込んで歩く(→なんとなく可愛げがない印象)のが癖で、すぐに大人に告げ口をするようなタイプだったので、ベンジャミンは別としても、自然と兄と妹の間に溝が生まれる形になっていく。
ただ、性格が悪いのは別にしても、クエンティンの死後、コンプソン家は没落の一方で、ジェイソンは立派な教育を受けることができなかった不運は同情に値する。それを根に持っているというより、単に性格が悪いからこういう言動をするのだなという場面は幾つかあって、あまり同情はできないけれど、最後までやはり不運であることが否めない男だった。
そしてこの章には死んだはずのクエンティンがまた登場して、しかも女の子であることに驚くが、それは長女のキャディが産んだ子供で、クエンティンの死後、同じ名前をつけられたからだと理解するまでにしばらく時間がかかった。これも第1章から通じて時間がバラバラに構成されているので、本当に分かりにくかった。

そして第4章は満を持して主役はキャディかと楽しみにしていると、コンプソン家で長年働いている黒人女性のディルシーの目線になるから拍子抜けすることになる。けれど、この物語はジェファソンというアメリカ南部の架空の町を舞台にしていて、南部は黒人差別が激しかったことからも、黒人の使用人のディルシーが大きく扱われることは重要な意味を持っていると思う。

これらは簡単な粗筋だけれど、一番印象的というのか、衝撃的だったのはやはりベンジャミンの第1章で、思考ができない人の頭の中を表現しようと考えついたことがまず表現の発明と言ってもいいくらいの偉大な創作だと思った。ベンジャミンが語るのは、花の匂いや水の流れ、炎の揺らめきなどについてだけれど、だからこそとても詩的で、タイトルの”響き”というのは彼の脳裏に押し寄せる印象のこだまみたいなものではないかと思った。
では、もう一方の”怒り”については、安易だけれど、ジェイソンの運のない人生に対する行き場のない憤りなのかなと思ったりした。

こういう難解な小説は初めてだったけれど、100年近く前に出版されたものがこんなに新鮮で衝撃に映るとは、読む前は想像もできなかったし、そういう意味では未知の世界に踏み込んでいくようなドキドキとワクワク感があって楽しかった。この本というか、フォークナーの作品に影響を受けた作家は多いというけれど、多分、読んだ人は誰だって少なからず影響を受けないわけにはいかないだろうと思った。好き嫌いは別にしても、素晴らしい作品だった。


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by kuma-rennes | 2016-12-08 07:50 | 詩/感想文 | Comments(6)

「チェーホフ・ユモレスカ」

チェーホフの傑作短編集のⅠとⅡを読んだ。「かもめ」や「ワーニャ伯父さん」などの戯曲は何度読んでも好きで、他の作品も読んでみたかったところに、彼の若い頃の短編集があったので日本で買っておいた。けれど、読み始めた頃は退屈で、先に挙げた戯曲集を読めばそれで十分ではないかと思った。しかし、この49編の短編を読み終わった後に私が感じたことは、49の中に一つでも自分が好きだと思うような、心に残る作品があればそれでいいのではないかということ。そして実際そう思ったのは4、5編くらいあって、この短編集を読んで良かったと満足している。特にⅡの方が一編一編が少し長めで読み応えがあった。

まず、チェーホフは作家であり、医者であった。16歳の時に家が破産して大学の医学部に入ると同時に家計を支えるために雑誌や新聞に短編や雑文を執筆していた。そんな頃の作品集であるから経験や技量が足りないのは当然のことだし、逆に若さ独特の軽さやリズム、自負などもあって、ある種の小気味よさがあった。

それからチェーホフはモスクワ郊外の田園生活時代に熱心に百姓たちの医療にあたったが、患者は800人にものぼり、彼は治療費を受け取ろうとせずに、生活費はもっぱら文学の仕事から得ていたということだ。これは解説に書かれていたことだけれど、医療と文学を両立したチェーホフは並々ならぬ努力家だったろうし、そのために冷静で現実的、客観的な精神の持ち主であったと思うが、百姓や貧しい人々に対する温かい目線や思いやりのあるところも文章を読んで納得した。

これだけでもうチェーホフを尊敬するには十分だけれど、作品についてもやはり触れておきたい。
私が一番好きだと思ったのが「狩猟解禁日」という短編で、オトレターエフカ村の6人の友人達は狩猟解禁日をとても楽しみにしてその日を迎えたが、みんなが集まると途端に喧嘩が始まり、あんなに楽しみにしていた狩りはまだ何も仕留めていないうちに喧嘩別れで解散となってしまう。その気持ちの高揚とがっかりした感じを読者に味わせる描写が実に巧みなんだけれど、最後の数行でまたなんとも言えない温かみに心が包まれる。その数行をここに書いてもいいでしょうか?
「二日ほどして、6人はオトレターエフ家に座り込んでカルタをしていた。ゲームをしながらいつものように悪態をつき合った、、、。
三日ほどすると、ひどく罵りあったが、五日後には一緒に花火を上げた、、、。
こうして喧嘩をし、悪口を言い合い、憎み合い、軽蔑仕合ってはいるが、きっぱり別れてしまうことはできないのだ。読者よ、驚いたり、笑ったりしてはならない!オトレターエフカ村に来て、冬や夏を過ごしてみれば、腑に落ちるに違いない、、、。辺鄙な田舎は首都とはわけが違う、、、。オトレターエフカ村ではザリガニだって魚だし、愚かなフォマーだって人間のうち、口喧嘩だって意思を通じ合う言葉なのだから、、、。

パリの友人で、一人でまさにこういうタイプの困った人がいるけれど、何故か憎めないのを思い出してコパンに話して笑ってしまった。自分も若い頃は口喧嘩もしたけれど、今ではそういう付き合いもあまりないと思う。口喧嘩がしたいわけではないけれど、そういうことができることも、そんな関係もまた宝ではないかと思った。

それから別の短編で、フランス人から見たロシア人の大食いをモチーフにした作品も面白かった。朝食にブリンというパンケーキを朝から一人で15枚も食べて、それにイクラやサーモン、バルイクというチョウザメの背肉の燻製を合わせ、おかわりはもちろん、ヴォッカにニュイ酒をひと瓶と、その上チョウザメのスープまで頼むロシア人の男性の話。しかも朝食と言っても時間は午後の3時で、5時から晩餐会で食事をするというからフランス人でなくても驚いてしまう。

ここでの可笑しい点は別に置いておいて、ブリンというのは丁度最近このブログのコメント欄で話題になったブリヌィという代物だろうと合点がいった。そのブリンは朝食やアペリティフにこうして食べられるものなのだという事もわかったし、調べた時に大量に作ると書いてあった理由も理解した。普通にみんなたくさん食べるからだ。それからロシアではチョウザメの卵(キャビア)は有名だが、普通にチョウザメ自体も食べられていることも知った。背肉の燻製やスープ、別の短編にはテリーヌとして夜食に登場したこともある。(しかも夜中の12時過ぎの夜食だった!)

こういう風に、そこで生活してみないとわからないことが物語の中に描かれているのは、外国の文学を読む上で非常に楽しい点だ。時代が違うといえば違うだろうが、そういった古い生活習慣、文化があってこその現在であるから、そういう意味でフランス文学を読むのも私には非常に興味深い。今回もチェーホフの作品からその頃のロシアを垣間見られて、それも楽しめて良かった。

その上でまた時間ができたらチェーホフの戯曲集をじっくり読み返したいと思った。。。



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by kuma-rennes | 2016-08-15 05:18 | 詩/感想文 | Comments(9)

「八十日間世界一周」

ジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」を読んだ。これはこの間、日本から持ってきた本の中の一冊になる。どうしてこの本を選んだのかというと、以前、ブルターニュの南の港町をドライブしていた時に、ロータリーの中央に地球儀とジュール・ベルヌの文字が彫刻してあったのでコパンに尋ねたら、「八十日間世界一周」のジュール・ベルヌのことだと教えられたので、名前くらいで読んだことはないからいつか読んでみようと思っていたのだ。だからと言って、本屋さんでこの本を一生懸命に探したわけではないけれど、たまたま見つけたので棚から抜き取ったというわけ。

先日、美容院でこの本を読んでいたら、お店の人が日本語の縦書きで漢字の本に興味津々でちょっとした話題になった。これはジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」だと伝えて、作者はブルターニュの人かと尋ねたら、すかさず携帯で調べてくれてナントで生まれたとを教えてくれた。
地球儀のあったロータリーは確か、ヴァンヌの半島の先の方だったような気がするので、それ以来、ジュール・ベルヌはブルターニュの人なのかと思い込んでいたけれど、生まれはナントで、作者の生まれた1828年の頃のナントはまだブルターニュであったから間違ってはいないが、その後はアミアン(パリの北側の都市)に移り住んだらしい。

物語に関しては、賭けから始まった話とはいえ、八十日間で世界一周を試みたイギリス紳士、フォッグ氏は几帳面で冷静沈着、何が起ころうと顔色一つ変えず、決めたことへの実行力は人一倍、どんな困難にもあきらめない強い姿勢はとても頼もしかった。
とはいえ、大金持ちのフォッグ氏だから、ほとんどの困難はお金で解決してしまうところに夢はないけれど、お金という魔法でもない限り先には進まなかっただろうし、魔法の杖や妖精が出てくれば寓話色が強くなってしまう。

またフォッグ氏とは対照的だったのが執事のパスパルトゥーで、少々道化の役割もありつつ、物語の大事なポイントで大活躍するので、時には邪魔にもなったけれど、この旅には必要不可欠な存在だった。
インドで象に乗って大陸を横断した時、フォッグ氏が有り得ない高値で買い取った象を、目的地に到着したらどうするのだろう〜と想像して、もしかしたら自分に譲ってくれるのではないかと妄想を膨らませるあたり、その幸福な単純さに思わずふっと鼻で笑ってしまった。結局は仕事以上の働きをした案内人に象は譲られるが、自分が妄想していたことなど忘れて喜んでいるあたり、彼の人柄がよく表れていると思った。
また、フォッグ氏の冷静さとは正反対で、パスパルトゥーはまだ起こりもしない事件や災難を勝手に想像して気をもむような小心者のところがあるけれど、こういう時は、何かが起こってから考えた方が無駄な心配をするよりもいいと思った。ただ、そういった泰然さは、フォッグ氏のように思慮と経験のある人だからこそ持てるものなのかもしれない。

この本を時間が経ってからまた読もうとは今は思わないけれど、逆にどうして子供の頃に読まなかったのだろうと後悔した。フォッグ氏の冷静さ、判断力、行動力とパスパルトゥーの人の良さ、大胆さはきっと、子供達のこれからの人生の色々な場面で希望や勇気、そして想像力を与えてくれることだろう。だからこの物語が子供用に編纂されて、多くの子供達に読み親しまれている事に納得したけれど、私みたいにいい大人になってからでもそれなりに楽しめるものだった。

物語の背景となる1872年の頃は、飛行機はもちろんまだ一般的ではなく、船や列車でやっと世界をつなぐようになったところで、それさえも画期的な時代だった。そしていざ出発してみると、インドの大陸では線路はまだ工事中であったり、中国ではアヘンで眠らされたり、日本ではお歯黒で目のつり上がった決して美人とはいえない女性を観察したり、アメリカではインディアンに襲撃されたり、かなり、かなり大袈裟な展開に、読み手も一緒になって思い切り楽しめた。手に汗などはもちろん握らないけれど、遊園地のアトラクションに乗るような、そんな楽しみ方も時にはいいのではないかと思った。気軽に読める面白い本でした♪




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by kuma-rennes | 2016-05-16 04:17 | 詩/感想文 | Comments(2)

「魔の山」

トーマス・マンの「魔の山」を読んだ。これは再読どころか、3度目の挑戦だった。初めて読んだのは10年くらい前だけれど、あまりに理解できなかったので、読み終えてそのまま最初のページに戻って読み返したのを覚えている。それから随分月日は経っているので、少しは理解できるのではないかと思って読んでみたものの、多分、半分くらいだろう。

「魔の山」では、特にフリーメイスンで人文主義者のセテムブリーニと懐疑的イエズス会士のナフタの論争のところは、読むだけで精一杯だったけれど、3度目ともなると、2度目よりは興味深く読めた気がする。それでも苦手意識を持っていただけまだマシで、今回初めて、書かれている内容に気づいた部分もあった。
というわけで、私にはとても難しい小説だったけれど、作者はそれを12年もかけて書き上げたのだから読む方もそう簡単に進むわけがない。

スイスの結核療養施設(サナトリウム)に従兄弟の見舞いに訪れたドイツ人のハンス・カストルプは、自分にも症状が現れて3週間の滞在の予定が、なんだかんだ完治せずに長い年月となってしまう。その終止符は第一次大戦によって打たれるが、おそらく、戦争がなければまだまだ滞在し続けていたことだろう。本人も幼い頃に身内を亡くした境遇であるために、元々望郷の念が薄かったこともあるが、サナトリウムの生活に一体何の魅力があったのだろうか。

ひとつは好きな女。ひとつには滋養たっぷりの食事や安静療養、散歩などの規則正しい生活習慣で時間が埋まることによる現実生活に対する思考の欠如。もうひとつには永遠に続くような時間にあてた思想の広がりや知識欲を満たす喜び、それによって自己の精神世界が充実していく満足感。
ハンス・カストルプは、興味を持つと星や高原の草花、人体の構造など、徹底的に調べてはかなりの知識を得たり、館内の娯楽に与えられた蓄音機から音楽に傾倒してそれなりの愛好家となるような好奇心旺盛な青年である。セテムブリーニとナフタの論争でさえも、傾聴に値すると考えてわざわざ伺いに行くのだ。
そんな彼が物語の主人公となったのは、まさに彼が素直で単純で真っさらな吸水紙のようだったから。その凡庸さと偏見のなさが周りの多くの個性を際立たせ、彼らを呼び寄せ、結びつけ、互いに違和感を持ちながらも新しい輪ができて、そこにまたテーマが生まれる。

作者がこの物語を通して何を伝えたかったのか考えてみると、扱われたテーマがあまりにも多義に渡るために具体的にどれとは選び難いけれど、私は人文主義者のセテムブリーニの存在、彼の古めかしい思想や、音楽のように美しい言葉の用い方、かなり誇大してはいるが、それが作者の心の声なのではないかと思った。もちろん、ノーベル文学賞を受賞したトーマス・マンが人文主義だとは誰も思わないが、彼の中の憧れや逡巡にそういうものがあるのではないかということだ。

というのは、トーマス・マンの両親は、父が公職を務めたような厳粛で生真面目な市民的気質の人間であるが、母親の方はラテンの芸術的、情熱的気質を持った人で、兄弟にも芸術家が多い。トーマス・マンも作家であり、芸術の分野に身を置きながら、若き日の周囲の退廃的な雰囲気に疑問を感じ、同時に憧れの念を抱く矛盾に葛藤した経験を別の短篇に書いていて、それは結局、彼の人生を通してのテーマだったのではないかと想像する。だから主人公ハンス・カストルプに教訓を与えたがるセテムブリーニの存在と、時にはそれを疎んだり、煩しく感じるハンス・カストルプ自身の両方・両者が作者自身の分身であり、また、ハンス・カストルプが肺病で自暴自棄になっているロシア人のショーシャ夫人に魅力を感じる衝動も全て、一人の人間の複雑に共存する意識なのではないかと思った。

サナトリウムから一向に出ようとしないハンス・カストルプに、自国に戻って元々のエンジニアとしての職業について社会に貢献するように勧めていたセテムブリーニの存在こそ、物語の良心であるのと同様にトーマス・マンの良心であるような気がした。けれど、セテムブリーニに「人生の厄介息子」と言われながら彼の話に耳は傾けつつも行動に至らない(本意が伝わっていない)ハンス・カストルプ自身もまたトーマス・マンが何よりも大切にしたい未完成の無垢や純粋さ、それは”若さ”と言い換えられるかもしれないが、その象徴なのかもしれない。

最終的には、自分で考え行動しようとしなかろうと、人に助言されようがされまいと、戦争で全てが変わる。ハンス・カストルプが自分の意思でもっと早くサナトリウムから退院しようと、最後まで残ろうと同じことならば、(状況が許せば)ありたい自分であるのが一番ではないかと思ったのが私自身がこの物語から得た答えだった。それもありたい自分というものがあればの話だけれど。

私はあまり日本語の本が手に入らないので同じ作品を何度も繰り返して読むようになってしまったけれど、2度読んだところで、「これをもう一度読んでみよう」と思うものは限られている。そういう本はあと6冊あるけれど、それらを読み終えた時にもう一度「魔の山」を読んでみたら、今回よりも更に楽しめるのだろうかと想像したら、頭がくらっとした。 











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by kuma-rennes | 2016-05-07 04:18 | 詩/感想文

「トム・ジョーンズ」

フィールディングの「トム・ジョーンズ」を読んだ。その前にエミリ・ブロンテの「ジェーン・エア」、ディケンズの「デビット・コパーフィールド」などのイギリス文学を続けて読んでいた。どれも再読だけれど、後の2つは自分の年齢からするとさすがに子供っぽいところがあるので、感想は控えようと思う。けれど、両方共、最初の方の主人公が子供の頃の話などは涙なしには読めなかったし、大人になっても忘れたくないようなことがたくさん書かれてあるので、こういう本は人生の中で一度は読んでおきたいと思った。では、いつ読むのかというと、学生の頃、課題図書というのがあったではないか。あれは夏休みだけの宿題ではなくて、その一年で読んでおくべき本を教えてくれるわけだから、それを片っ端から読んでいけばいいのではないかと思った。問題は、現在の課題図書にこういう本を載せてくれているかということだけれど‥…。

話が逸れたが、「トム・ジョーンズ」と聞いてすぐにぴんとくる人はそう多くはないと思う。かれこれ250年以上前のイギリスの小説だ。これを読むのに日本の友人に頼み込んで送ってもらったが、本屋では入手不可能だったために表紙のないような古い本をやっと見つけて送ってくれたというとても手間のかかった本だ。

手元に届いてすぐに読んだが、あまり面白いとは思わずに一応最後まで読み終えて、そのまま数年たっていた。それを何となくまた手にして読んでみると、奇妙なことに先の内容が思い出せない。ラストはハッピーエンドであることは知っているし、実際に文字をなぞると「そうそう、そうだった!」と記憶があるのだけれど、具体的な物語の進行がその場面にくるまで全く思い出せない本はこれが初めてだった。

そして初読の時は退屈で仕方なかった前章(各章の序章)の部分が、今回は面白くて仕方がない。物語とは全く関わりのないような作者のうんちくが、本来の物語よりも面白く感じるのだから滑稽だ。そしてその作者本人が物語の語り手となっていて、「これ以上話しても読者が退屈するだろうからやめて次に進もう」なんてフレーズは何十回も出てきて色々はしょってくれる。
一番最後の前章にいたっては、乗り合い馬車で物語を語っていた連れ合いのように情が出てきて、「自分にも悪いところはあったかもしれないが、今となっては水に流してくれ」などと読者に詫びを入れたりする、その前章のタイトルも「読者と決別」なんだから可笑しくって仕方がない。でも、実際、最後の前章の頃には別れが惜しくなって、いつもより丁寧に読む自分がいるからまんまと乗せられている。

肝心の物語については、主人公トムの出生から生い立ちをなぞりつつ、女主人公ソフィアとのなれ初めや別れ、そして再会、結婚までを柱とする喜劇的恋愛物語で、紆余曲折があるとしても4巻というのは少々長すぎる。そのうちの1巻分は前章に割かれ、半巻くらいは作者の寄り道に使われているが、それがこの小説の面白味といっても過言ではない。
何かの説明を例え話で読者に理解させようとするが、その例えでは気に入らないからもうひとつ別の例を加える‥…なんて言い直すのも、小説を読んでいるのではなくて、まるで人の話でも聞いているかのような書き方で唖然とした。
他にも、親というものはどの子供も可愛いが、本心を言うと、ひいきしてしまうこともあるのが人間というもので、自分もついついソフィアの話をしたくなってしまう‥…などと書いたりしている。

とはいえ、作者の客観的な視点は始終一貫している。それはひとりの人物、男と女の差、職業や階級によるあり方、そしてそれぞれの性格などを写実的に描写していて、主人公といえども欠陥のある人間味のある姿に、当時のモラルを求める人達からはだいぶ批判もあったようだ。
そんな高度な作家の技術を養う為に、作家というものは、異なる階級に出入りをしてどちらの人達ともつきあうことでお互いの違いや差を研究すべきであるとか、書物で勉強するだけでなく実社会に出て経験することの大事さを説いたり、批評家に対してのしつこいくらいの不満や文句なども長々と書いたりしている。
いうなれば、この物語(ひいては作家)の手引きみたいなものを隠さずに教えてくれる気前のよさで、普通は隠すというより、そんなことは書かないだろうから、あるいみ斬新な小説だったと思う。

そうして今、4巻全て読み終えて私が思っていることは、この作者の他の作品も皆こんな風に前章が用いられて書かれているのかという素朴な疑問だ。。。




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by kuma-rennes | 2015-07-31 01:32 | 詩/感想文 | Comments(0)

「外套」

ゴーゴリの「外套」を読み返した。初読は割と最近のことなのに、もう既に勘違いしていた部分もあって、例えば、主人公のアカーキイ・アカーキエヴィッチが節約に節約を重ねてやっと購入した外套は、一番上等の猫の毛皮であってラゴンダンではなかったとか‥…大したことではないけれど、人の記憶は曖昧なものだし、自分の価値観も変わっていたりするので、繰り返し読んでも新しい発見があるのはいつものことだ。

主人公のアカーキイ・アカーキエヴィッチは九等官の官史で、何十年もの間、同じ席で、同じ地位で、同じ役柄の文書係を勤めてきた真面目な男だが、周りからはからかわれ、尊敬されることもなかった。彼の古い外套はみんなから”半纏”とちゃかされ、仕立て屋にはもう繕うところもない代物だと言われ、一年発起して外套を新調することになるが、やっと手にした大事な外套は追いはぎに盗まれてしまう。絶望した彼はショックのあまり具合をこじらせてそのまま死んでしまう。その後、街にアカーキイ・アカーキエヴィッチと瓜二つの幽霊が現れて外套を奪うという噂が出るが、真偽の程は定かではない。。。というのが簡単な粗筋。

こうやって書くと何とも哀れな話だけれど、何故かそれだけでもない面白味がこの作品(というか、作者の作風)にはある。主人公が最後に幽霊になるというファンタジー性にもそういった効果は充分あるけれど、何よりも、主人公の人柄が何ともいえずにチャーミングだからではないだろうか。

仕事場で彼は何をしているかというと、写文、いわゆる文書の手書きのコピーで、その仕事を彼はとても勤勉に誠実さを持って日々行なっている。人から見れば単調な作業も、彼にしてみればお気に入りの文体や文字があって、それを写す時には心が躍るというのだから彼ほどの愛情を持って同じ仕事が出来る人は外にいなかっただろう。

そんな彼が新しい外套を手に入れるために、例えば家で使う蝋燭の消費をおさえるだとか、靴底がすり減らないようになるべく注意して街中を歩くだとか、小さな小さな努力を重ねて、その苦労もだんだん新しい外套を迎える楽しみに変わっていく様子は、読者も彼の小さな幸せを願わずにいられなくなる。
職場の人達は彼のことをよくからかうけれど、それも決して悪意のあるものではないことからも彼の人柄は伝わるだろう。
だから私はこの後、新しい外套が追いはぎにあう事実を切ない気持で読み進めていた。

だからといって、彼が警察や街の有力者に外套の捜査を頼みに出向き、じゃけんに扱われてショックの余り死んでしまうのは少々話が短絡的過ぎると思ったし、後に幽霊になって現れるというのも突飛すぎて、このラストには私はずっと疑問を感じていた。
けれど、最後の方の文章の「誰からも庇護を受けず、誰からも尊重されず、誰にも興味を持たれず、属僚的な嘲笑にも甘んじて耐え忍び、何ひとつこれという事績も残さずして墓石へ去った‥…うんぬん‥…」

ではなぜそういう人間が物語の主人公になるのか‥…というところに、作者ゴーゴリの哀れみの深さを感じたのだ。だからこそ、アカーキィ・アカーキエヴィッチをそのままただ死なせるわけにはいかなかったのではないかと思うし、それは作者なりの”名もなき人々”へ対する”敬意”と”救済”ではなかったのだろうか。

そう考えると、この物語の主題を考えるというより、作者の人となりを感じる物語であったと思う。






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by kuma-rennes | 2015-03-03 05:01 | 詩/感想文 | Comments(2)

「フラゴナールの婚約者」

岩波文庫の「フランス短編傑作選」を読んだ。その前に「モーパッサン短編選」を読んでいて、短編を意識して読んでいた。
しかし、フランス文学ではあまり有名な短編小説というのは聞かないし、しいていえばモーパッサンかカミュくらいで、短編の位置づけもそれ程重要視されてもいなければ、小説というよりも昔は詩に近い分野でもあったようだ。

というわけで「フランス短編傑作選」は私には少々退屈な本だったが、ラストに読んだロジェ・グルニエの「フラゴナールの婚約者」はそんな気持を返上するような素晴らしい作品だった。

どうしてかというと、非常に”私好み”だったからだ。
普通、趣味で本を読んだり、音楽を聞いたりする時は自分の”好み”や”気分”に合うものを選ぶことが多いと思うが、私はずっと”学ぶ”という意味合いや”傾向”などを意識して選んでいたから、私自身の”好み”がどういうものだか実はあまり把握していなかった。
けれど、この短編を読み終えた時に、いや、もう読み出してすぐに自分にとてもしっくりくる内容、背景、雰囲気、リズム‥…等々であると気が付いた。

具体的にどういう部分かというと、登場人物の男女の関係が元義理の兄妹であり、現在は他人なのだが、だからといって恋人でも、友人でも、ましてや家族でもない微妙な距離、それでいてお互いを大切に思っていること、その気持をわざわざ相手に伝えようとはしないところ‥…何故って、女性は口がきけないのだから‥…そういう曖昧さがまず良かった。。。その後、女性は口がきけるようになって2人に展開があるかのように見えるが、おそらく、私の想像では何も変わらないし、変わる必要もないのだと思った。

そして特に”好み”だったのは、2人が会う時は必ずパリの史跡巡りをすることで、言ってみれば、それが2人の会う口実であり、その口実がなんとも言えず知的で可愛らしいことだった。2人はカフェでお茶はしても食事はせず、それもまた2人のいい距離感を表していると思った。

そして、そして、私が一番興味を持ったのは、2人が最後に訪れた(パリの南東・郊外にある)メゾン・アルフォールでの動物や人体の解剖標本を展示している博物館だ。私は自然史博物館が好きだし、人体や骨の模型を眺めるのも好きならば、葉の葉脈、石や貝殻の線に見とれることもよくある。木々の新緑は美しいけれど、本当は冬の裸木がもっと好きで‥…はっきり言うと、線を追うこと、できれば自然のラインを眺める時にとても神秘的な気持になるのだ。だから次回、私がパリに行く時には必ずメゾン・アルフォールの博物館に行くというのは確実なことだろう。。。

作品のタイトル「フラゴナールの婚約者」というのは、その解剖博物館の目玉ともいわれる”騎馬の女とその馬”の標本で、馬にまたがった(もちろん解剖されている)女はフラゴナールという解剖学者のフィアンセだったという説からきている。その標本をぜひとも彼女に見せたかったフィリップと同様、作者自身も何かしらそういうものに惹かれるからこの短い物語が存在し、私みたいにそれに共感する人はこの物語を愛するのだろうと思った。

私はずっと”読み応え”や”テクニックの高さ”が判断基準で読む本を選んできたから、自分の好きでないものも、面白いと思わないものも、勉強のために最後まで読む辛抱強さは持っているし、それが私の引き出しの中身になっているのだと自負していた。そして今、この短編は他の作品よりも優れているとはいわないけれど、私好みの作品であることは間違いないし、そういうものに今更ながら出会えて少々驚いていたり、嬉しく思っているのが素直なところだ。


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by kuma-rennes | 2015-01-27 06:57 | 詩/感想文 | Comments(2)

「偸盗」

夏の旅行に持っていった本は「芥川龍之介集」でした。以前から芥川龍之介の短編集をじっくり読んでみたいと思っていたら、知り合いの方の家の本箱で見つけたのでお借りしました。

ご覧の通りとても古いので、文体も古くて少々読み難かったけれど、内容の面白さでどんどん進みました。
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短編がほとんどで、羅生門、蜘蛛の糸などの知っている作品はもちろんあって、有名なものはやはりそれだけのことはあるなと思いました。また、蜜柑やトロッコなどの素朴で叙情的な作品もよかったし、後期の河童や歯車も印象的です。あとは一塊の土というのが個人的にはとても心に残っているのですが、今回は偸盗の感想を書こうと思います。これが面白くて夜中まで読んでしまって、旅行の移動中にコパンに熱く語ってしまったという物語でもあります。

何がよかったかというと、作品のもつ”スピード感”だと思います。それから登場人物”沙金”の不可解な魅力‥…これを映画にしたら面白いだろうなと思ったけれど、沙金役の合う女優が想像できませんでした。

物語は沙金を頭にした盗賊一味が愛憎入り交じった複雑な関係で今夜の仕事(盗み)にとりかかるという一日を描いているわけなんですが、まず、沙金に惚れている兄弟が一触即発の状態であるところに、沙金の義父までが加わって四角関係になるのだから、もうぐちゃぐちゃです。
沙金自身は兄から弟に気持が傾いていて、晩の仕事でその兄を殺すためだけに、(産みの親を含めた)仲間を見殺しにする覚悟で密告を行ないます。

そんな破滅的な夜に向かってそれぞれの登場人物の心情をじっくり書き表しているのですが、沙金だけは言動のみで心の声(弁明)は一切与えられていないのが、彼女をより一層不可解な存在にならしめています。
そして沙金とは対称的な存在として阿漕(あこぎ)という白雉の女も登場しますが、彼女は純粋無垢で無知なだけに、しかも父親を知らない子を宿した妊婦であることからも、この物語の聖域のようなものだと思いました。

読んでいる私はとにかく先が気になってドキドキして途中で本を閉じることができませんでした。こういう興奮は久し振りだったので、それだけでも私には面白い小説でした。けれど、作者本人はこの小説に不満を感じていたというのを後で知って意外に感じましたが、確かに、あれだけ盛り上げておいてラストはちょっと弱かったように感じました。

作者も、この物語のテーマとして”兄弟愛”を描きたかったわけではないでしょう。。。そしてこの物語は、時代背景などを考慮して”羅生門”の後の話とも受け止められなくはないので、そういう意味でも羅生門の主題の強さにはやはり敵わないと思いました。

というわけで、映画にするならばラストはちょっと変えた方がいいかもしれませんが、私は何よりもこの物語の書き方の技法がうまいと思いました。
夜に向かう時間の一刻一刻と、それぞれの人物の関係性を、それぞれの独白で説明していく‥…その進め方がとても巧妙で、スピード感はあるものの、時間がとても重く感じられました。どんなにどうしようもない人間でもそれぞれに言い分があって、それを無視することはできない弱さと優しさが人間にはあるのだと妙に納得したりもしました。

芥川龍之介集の全体を読んで、それぞれの立場や境遇、それぞれの気持があって必ずしも満場一致の答えはないし、そしてそれは否定できないという印象は他の作品からも感じられたので、そういうところは作者自身の繊細さや、終わりのない思考回路につながるのかなと思いました。

今回、私は短編の上手い人の小説を読みたいと思ってこの本を手にしましたが、羅生門などの有名な短編は本当に素晴らしいと思ったのと同時に、その他の作品群からも作者の人となりがほんの少し覗けたような気がしました。作品集というのは、そういう所がとてもいいと思います。




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by kuma-rennes | 2014-08-17 05:16 | 詩/感想文 | Comments(4)

「狂人日記」

変なタイトルでごめんなさい。でも、そういうタイトルの本を読んだものですから‥…
ゴーゴリの短編小説の「狂人日記」です。

ゴーゴリの本を読んでみたくて、日本に一時帰国する友人に頼んで買ってきていただきました。(感謝!!)
本は2冊で、「外套」と「鼻」、そして「ネフスキィ大通り」、「肖像画」、「狂人日記」の短編集です。
特に印象に残ったのが、「外套」と「狂人日記」だったので、今回はその後者の感想を書くことにしました。

けれど、全体を通して、ゴーゴリはとってもファンタスティックな作家だという印象を受けました。
幽霊や幻想が毎回登場するのは彼の”おはこ”だと思ったし、主人公がショックのあまり死んでしまう!のはもうお決まりの構成で、普通はそれでおしまいになるところを、まだまだ話が続くのも彼らしい季節のご挨拶のように思えてきました。
通りや文字をまるで人間のように愛着を持って活き活きと描写できるのも、作者の人間的な一風変わった魅力のようにも思えたし、人間の鼻が顔から離れて外套を羽織り、馬車から降りてくるなんてとんでもない場面も、もう普通に受け入れている自分がいました。

こう書くと、ゴーゴリの作品を知らない方は喜劇作家だと思われるかもしれませんが、彼の作品はファンタジーや滑稽さの中にも、人間の持つ悲哀みたいなものがあって、泣き笑いに近いような、そんな切ない物語も多かったです。

そのひとつが「狂人日記」でした。簡単に説明すると、ひとりの男が狂人になっていく心情の過程を日記という形体を通して、本人側の視点で辿っていく作品です。
普通は、人の奇態な言動を、別の他人が驚いて反応することによって、その人の異常さが目立ちますが、この作品は(日記形式なので)周囲の人の方がおかしいと断定して書かれています。だから、読みはじめた頃は、犬の会話が聞こえる主人公を、物語として私は真面目に受け取っていましたが、その後、どんどん、例えば自分のことをスペイン王だと名乗る主人公を、日記の中だけの空想では終らずに実際にやっているんだ!と理解した時の唖然とした気持は本当に何ともいい様がありませんでした。

そうして自称スペイン王がロシアから故郷のスペインにものの30分で到着したと思ったら、どうやらそこは監獄だったようで、スペインの流儀はこんなに乱暴なのかと日記に不満が綴られていることで全てを理解したというわけです。(遅いですか?)

この短編ははっきり言ってとても面白いものだと思うのですが、かといって笑い転げていいのか、可哀想だと思ってあげればいいのか、どんなものだろうと‥…思いながら読み進めていくと、最後の日記でその答えが出てきました。

主人公にも母親がいて、生まれてきた時には温かく抱き締めてくれる存在がいたということです。
みんなと同じように生まれてきて、どこからどういう風に道を見失ってしまったのか分らないけれど、その人のことをまっすぐに見つめてくれる存在がたとえあったとしたら‥…そしてそういう孤独な人は世の中にたくさんいるという現実の社会と重ねて、私にはこの物語が非常に心に残るものとなりました。







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by kuma-rennes | 2014-03-19 01:04 | 詩/感想文 | Comments(4)

「白鯨」

物凄い充実感!!!何故かと云うと、再読に1年以上かかっていたメルヴィルの「白鯨」をやっと昨夜読み終えたからだ。

もう10年以上前になるけれど、サマセット・モームの10大傑作小説を制覇しようと試みて、一番難しかったのがこの白鯨だったので、もう二度と読み返すことはないだろうと思っていた。

小説は好きだけれど、鯨や捕鯨の論文みたいなものは興味がなかったのにそれを再度手に取ってみたのは、他に再読する本がもうあまりなかったことと、一度読んではみたものの、内容を理解したとはとても言い難かったからだ。

けれど、読む前から壁にぶつかるのは分っていたので、今回は物語よりも鯨と捕鯨に関して理解を深めようという気持で読むことにした。

この秋、パリの自然史博物館を訪れたのも、何を隠そう、実物大の鯨の巨大さを実感したかったからだ。
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それでも、今回もスラスラ進むにはとても困難な小説だったが、それだけに読み終えた後は山登りで山頂にたどり着いた時の爽快さに似ている。

今となっては鯨に対して並々ならぬ親近感を抱いているし、機会があればぜひとも鯨の料理を食べたいと思っている。。。と、話は逸れたが、分厚い2巻分の1000ページに及ぶ大小説も、おおまかな物語の進行は100ページくらいで事足りてしまう。

後は全て、鯨について、捕鯨について、白鯨について、白い色の恐ろしさについてなど事細かく書かれていて、文体も「白鯨をば、」なんて読んでいる方が気恥ずかしくなるような古い訳のままだ。

けれど私は、ラストの白鯨(モビーディック)追撃の三日間を、一晩一晩コパンに音読して聞かせたくらい、自分でもクライマックスを楽しんで味わっていた。(コパンには迷惑な話だったと思うけれど。。。)

鯨を人間が銛や槍を投げて捕鯨していた時代。3つのボートにそれぞれ一等航海士、二等航海士(銛打ち)、その他の漕ぎ手で構成されているとか、運よく仕留めた鯨を、本船の船体よりも巨大な鯨の脂をどうやって採取するのか、それを文字のみの説明で細かく理解して想像していく過程は、書いた人はもちろんだけれど、読み手の私にもかなりの情熱が必要だった。

この本を皆さんにお勧めしようとは特に思わないけれど、こういう海と空と鯨と男達の厳しい物語の中にもうっとりするような美しい文章は存在する。それは繊細な感情の表現や、華やかな社会や生活、様式美の中でふわふわ浮いているような上品な美しさとは全く異なるけれど、時にはそれよりもはるかに胸に響くこともあると私はここに書いておきたい。


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by kuma-rennes | 2013-12-06 04:38 | 詩/感想文 | Comments(2)